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昨日発行しました飛鳥遊訪マガジン38号でもお知らせしましたが、
第12回定例会の申し込み締め切りは、年明けての1月4日になります。
これから、年末年始の慌しい時期に入ります。
参加を前向きにご検討くださってる皆さんは、お早めに申し込みメールの送信して下さい。
お忘れにならないようにお願い致します。
お申し込みをお待ちしております。(^^)
なお、参加申し込みのメールには、一両日中に受付させていただいた旨のメールを返信させていただいています。
詳細メールの返信が来ないという方がいらっしゃいましたら、メールトラブルも考えられますので、再度メールを送信していただくか、ブログにコメントをお願い致します。
(参加受付はメールのみです。郵便・電話では受け付けておりません。)
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第12回定例会 両槻会主催講演会「飛鳥のみち 飛鳥へのみち」
講演会案内
日時 2009年 1月 10日(土)
開場 12時30分
開演 13時00分
終演 16時20分
演題 「飛鳥のみち 飛鳥へのみち」-すべての道は飛鳥に通ず-
講師 橿原考古学研究所 主任研究員 近江俊秀先生
会場 飛鳥資料館講堂
参加費 500円 (飛鳥資料館入館料金を含む)
受付場所 飛鳥資料館入口付近両槻会受付
受付時間 12時20分~12時50分(厳守・時間外の参加受付は出来ません)
*飛鳥資料館入場は、必ず両槻会受付を通してください。
*受付を通さない場合、入場料金の払い戻しは出来ません。
また、恒例の講演会前散策も予定しております。散策は自由参加です。
講演会参加者のみ参加していただけます。
(ウォーキングだけの参加は出来ません)
詳細は、下記ページをご覧下さい。
第12回定例会案内
先月末に行われた「明日香村発掘調査報告会2008」で、配布された当日資料が明日香村公式サイトにUPされました。
A4で32枚に及ぶ資料になっています。
真弓鑵子塚古墳の位置図や出土遺物、檜隈寺周辺の調査の概要に加えて、
当日講演された東京学芸大学特任教授の木下正史先生のレジュメもあります。
当日、参加できなかった皆さんは、目を通されてはいかがでしょうか。(^^)
明日香村発掘調査報告会2008資料
高取町薩摩遺跡第8次調査現地説明会資料
また、当日現地を訪れた模様が両槻会々会長 河内太古のサイトにUPされてます。
現説資料以外の遺構の写真もUPされていますので、よろしければご覧下さい。
古代の溜池の木樋が検出された薩摩遺跡(高取町)現地説明会
縄文時代晩期中葉になりますが、興味深い遺構ですので、一読しておくのも面白いと思います。(^^)
観音寺Ⅰ区現地説明会資料 (PDFファイル)
奈良県高取町の薩摩遺跡で、奈良時代末(8世紀末)から平安時代初期(9世紀前半)ごろの灌漑用の溜池と、取水用に設けられたと思われる精巧な木組による設備や、この池を設置したと思われる人物名入りの木簡が発見されました。
木簡は、縦21.5cm、横4.1cmで「波多里長の檜前主寸がこの池を造った。」とあり、「池の完成を祝って神秘的な現象が起きた(神が喜んだ)」とされる内容も含まれているようです。
波多氏は、現在の高取辺りに居住していた渡来系の氏族になり、「主寸(スグリ)」は、それら氏族を束ねる長に与えられた姓(かばね)だとされています。(「スグリ」は、「村主」とも書かれる場合があります。)
国司の命令で渡来系氏族がその技術力を振るった結果ではないかということです。
この木簡は、池が完成した際に行われた式典で読み上げられたものと見られ、付近からは銅銭(皇朝十二銭の承和昌宝(835年鋳造)3枚)も出土しているそうです。
検出された溜池は、南北約90m、東西約40mで、木製の取水施設は、角材をくり抜いた木樋の一部(長さ1.2m、幅0.5m)が池の北側で検出され、水量を調節するための栓の一部も確認されています。
古代の溜池は、大阪狭山市の狭山池をはじめ数例しかなく極めて貴重なもので、取水施設の構造などは、現在にも通じるものがあるそうです。
遺構や木簡の写真ニュースはこちら
(すぐにリンク切れになると思います。m(__)m)
今週末の12月14日の午前11時と13時の二回に分けて現地説明会が行われ、
木簡については、同日(14日)に橿原考古学研究所付属博物館にて公開されるそうです。
(ご注意:木簡公開と現地説明会の場所は異なります。)
詳細は、橿原考古学研究所の下記アドレスをご確認下さい。
薩摩遺跡現地説明会および木簡公開のお知らせ
http://www.kashikoken.jp/from-site/2008/satsuma8/satsuma8.pdf
橿原考古学研究所
http://www.kashikoken.jp/
そのメルマガを、執筆者ごとに整理した両槻会サイトのコンテンツ「遊訪文庫」を、前号36号分まで更新いたしました。
写真などを追加したり、追記や修正を加えているものもあります。また、記事内に直接写真を入れていますので、速報性には欠けますが、より見やすい読み物となっていると思います。読者の方々も是非ご覧下さい。
飛鳥遊訪マガジン
遊訪文庫
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第15回定例会(2009年7月)は、主催講演会を予定していますが、講師の先生が確定いたしましたので、予定表に追記更新いたします。
講師をお引き受けくださいました豊島先生は、主に弥生時代を専門とされておられますが、飛鳥でも最も注目される遺跡の一つ「甘樫丘東麓遺跡」を調査されている先生です。講演内容は、まだ決まっておりませんが、どうぞご期待ください♪
第12回定例会 1月10日 主催講演会 「仮題 飛鳥のみち 飛鳥へのみち」
第14回定例会 5月予定 野外イベント
案内 橿原考古学研究所付属博物館 主任学芸員 山田隆文先生
予定は変更されることがあります。ご了承ください。
詳細は、当会発行のメールマガジン「飛鳥遊訪マガジン」にて、決定次第お知らせいたします。
(遺構・西から 2008.11.15.撮影)
飛鳥遊訪マガジン36号でご紹介した飛鳥寺南の奈文研の調査区から、寺の南に広がっていた「石敷き広場」の北東隅だと思われる遺構と階段状に構築された石組溝などが検出されたようです。
今回見つかった遺構は、北辺と東辺にそれぞれ約70cm大の花崗岩を縁石状に施されていたことから、飛鳥寺の南、飛鳥京との間に広がる石敷き広場の北東隅であるとされました。
(石敷き広場の広さは、推定南北20.5m東西65m以上。)
また、その東側には、50~70cm大の花崗岩による石組溝が南北4m分検出されました。
石組溝は、西側が2段、東側が3段の階段状に築かれ、7世紀末頃には埋められたようです。
(東西幅は0.7~2.6m、深さ20~80cm。)
この石組溝を丘陵沿いに想定される南北道路の西側溝と考えると、橋など掛けて、東西に広がる石敷きと南北道路は丁字路であったかもしれないということです。
酒船丘陵の西を走る南北の道から、飛鳥京や飛鳥寺、日本書紀にみえる「飛鳥寺の西の槻の木の広場」、石神遺跡などへと入る重要な場所であったと考えられれるようです。
飛鳥京外郭北限から飛鳥寺の南門までは、およそ80mほどの空間があります。石敷遺構を含めた広い空間だったようですが、飛鳥寺を南から拝する空間であり、飛鳥寺の威容を見せることを意識した空間であったのかもしれませんね。今回の調査では、その石敷遺構(広場・道路)に接続する道路が発見されたことになります。
飛鳥京の東端を通る道路が飛鳥寺瓦窯のある丘陵にぶつかり、やや西に振れてから再び北上していたのかも知れませんね。この南北道が、この先どのように伸びていたのか、石敷遺構の全体像はどのようなものだったのか、更に興味が増す発掘成果でした。
動画ニュース