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(遺構・西から 2008.11.15.撮影)
飛鳥遊訪マガジン36号でご紹介した飛鳥寺南の奈文研の調査区から、寺の南に広がっていた「石敷き広場」の北東隅だと思われる遺構と階段状に構築された石組溝などが検出されたようです。
今回見つかった遺構は、北辺と東辺にそれぞれ約70cm大の花崗岩を縁石状に施されていたことから、飛鳥寺の南、飛鳥京との間に広がる石敷き広場の北東隅であるとされました。
(石敷き広場の広さは、推定南北20.5m東西65m以上。)
また、その東側には、50~70cm大の花崗岩による石組溝が南北4m分検出されました。
石組溝は、西側が2段、東側が3段の階段状に築かれ、7世紀末頃には埋められたようです。
(東西幅は0.7~2.6m、深さ20~80cm。)
この石組溝を丘陵沿いに想定される南北道路の西側溝と考えると、橋など掛けて、東西に広がる石敷きと南北道路は丁字路であったかもしれないということです。
酒船丘陵の西を走る南北の道から、飛鳥京や飛鳥寺、日本書紀にみえる「飛鳥寺の西の槻の木の広場」、石神遺跡などへと入る重要な場所であったと考えられれるようです。
飛鳥京外郭北限から飛鳥寺の南門までは、およそ80mほどの空間があります。石敷遺構を含めた広い空間だったようですが、飛鳥寺を南から拝する空間であり、飛鳥寺の威容を見せることを意識した空間であったのかもしれませんね。今回の調査では、その石敷遺構(広場・道路)に接続する道路が発見されたことになります。
飛鳥京の東端を通る道路が飛鳥寺瓦窯のある丘陵にぶつかり、やや西に振れてから再び北上していたのかも知れませんね。この南北道が、この先どのように伸びていたのか、石敷遺構の全体像はどのようなものだったのか、更に興味が増す発掘成果でした。
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